中絶
聖書は、いのちは息から始まり、胎児はまだ生きている人ではなく、中絶は殺人ではないと教えています。
ユダヤ教とキリスト教において、いのちは息と結びついています。 ヘブライ語の chayim(חַיִּים、いのち)、ruach(רוּחַ、風・息・霊)、 neshamah(נְשָׁמָה、息)、nefesh(נֶפֶשׁ、生きもの・いのち・人)という言葉は、 息といのちは切り離せないという古代の理解を表しています。 創世記 2:7 で、神は nishmat chayim、すなわち「いのちの息」を人に吹き込み、 人はそれによって nefesh chayyah、すなわち「生きる者」となりました。 エゼキエル書 37 章では、ruach(息/霊)が干からびた骨に入って初めて、骨は生き返ります。 また詩篇 104 篇では、ruach(息/霊)によっていのちが造られます。 人は息によって生きる者となるのです。
YHWH なる神は、大地のちりで人を形造り、 その鼻にいのちの息を吹き込まれた。 それで人は生きる者となった。
出 21:22–25で、 神は胎児と生きている人とを区別しておられます。
人が争っていて身ごもった女に突き当たり、その子どもが出ても、ほかの害がなければ、その者は必ずその女の夫が課するとおりの罰金を科され、裁判官の定めるとおりに支払わなければならない。しかし、ほかの害があれば、いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
七十人訳(LXX)がこの点を明らかにしてくれます。七十人訳は、紀元前 250 年ごろ、出エジプト記を含む律法のギリシア語訳として始まりました。大祭司が選んだ七十二人の長老の書記たちが、互いの訳をつき合わせ、協力して最終的な本文を仕上げました。完成後、「律法全体」が公に朗読され、承認されました。七十人訳は、イエスと使徒たちが最も多く引用した聖書の形でもあります。
二人の男が争って、身ごもっている女を打ち、その子がまだ形が整わないまま出てきたなら、その者は必ず、女の夫が課するとおりに罰金を科され、査定に従って支払わなければならない。しかし、もしその子がすっかり形が整っていたなら、いのちにはいのち、目には目、歯には歯、手には手、足には足、やけどにはやけど、傷には傷、打ち傷には打ち傷をもって償わなければならない。
ギリシア語の ἐξεικονισμένον は「形造られた」という意味で、完了受動態として「形造られ終えた」という意味も持ちます。 まだ呼吸のできない胎児は、まだすっかり形の整った人ではありません。 その喪失は、同害報復法(lex talionis)——「目には目」や「いのちにはいのち」(レビ 24:19–20、申 19:21)——のもとで生きている人を失ったものとしては扱われず、 罰金として扱われました。
しかし、もし子どもがすっかり形が整い、呼吸できる状態で出てきて、 それが自然にであれ助けを借りてであれ、目や手足、そのほかの点で傷を負ったなら、 生きている人に対する基準、すなわち「目には目」が適用されたでしょう。 また、その子が死んだなら、 殺人として「いのちにはいのち」が適用されたでしょう。
トーマス・F・マクダニエル博士は、The Septuagint Has the Correct Translation of Exodus 21:22–23(2012 年)の中でこう書いています。1
この律法は完全に明確であったため、スプリンクル(1993:247)は的確にこう述べている。
支払われる罰は、死んだ胎児の発育段階に基づいて査定される。 この見解の根拠は、妊娠の段階が進んでいるほど、女性が失った時間は長く、 子を失った悲しみは大きく、つらいものになるからである。 …… さらに、これと並行する古代ヒッタイト法第 17 条では、流産に対する罰が実際に死んだ胎児の月数によって異なっており、 スパイザーの見解はいっそう信頼性を増す。同条は次のように定めている。 「もし誰かが自由人の女を流産させたなら——それが十か月目であれば、 銀十シェケルを支払い、五か月目であれば、 銀五シェケルを支払い、自分の財産を担保として差し出さなければならない。」
主は私たちに、胎児を生きている人として扱うようにとも、中絶を殺人として扱うようにとも命じておられません。 アレクサンドリアのユダヤ人哲学者フィロン(紀元前 20 年ごろ–紀元後 50 年ごろ)はこう書いています。2
そしてこれらの事柄については、次の律法が実に麗しく、ふさわしく定められている。「二人の男が争っているときに、一人が身重の女を打ち、その子が完全に形造られる前に彼女から出てきたなら、その者は女の夫が課するとおりに罰金を[科され]、その罰金を当然のこととして支払わなければならない。しかし、もしその子がすっかり形造られていたなら、いのちにはいのちをもって支払わなければならない。」完成した作品を滅ぼすことと、未完成の作品を滅ぼすこととは、同じではなかったからである……
参考文献:
- The Septuagint has the Correct Translation of Exodus 21:22-23、トーマス・F・マクダニエル博士(2012 年)
- The Works of Philo, Ch. 18, Early Christian Writings、アレクサンドリアのフィロン(紀元前 20 年ごろ–紀元後 50 年ごろ)。